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回想傳

  • 執筆者の写真: shibata racing
    shibata racing
  • 23 時間前
  • 読了時間: 4分

今年も軽井沢にある室生犀星の別荘の公開が、ゴールデンウイークよりはじまりました。

11月までは、無料で誰でもここを訪れることができます。

犀星が自分で植え付けた苔が、本格的に色濃くなるのは梅雨明けです。





2025年5月23日



この季節になると、まず訪れてしまう場所が軽井沢。そして室生犀星の別荘です。

これほどの場所が、誰でも無料で楽しめる。ということは特筆すべきことでしょう。

庭師の方が、毎日落ち葉を拾い、掃き清め。何か尋ねれば、懇切丁寧に説明をしてくれます。


おそらくボランティアもしくは、軽井沢町が費用を負担しているのでしょうが、ここにいる方々の人となりを見ていると、心から室生犀星に心酔していて、彼の意志を継ぐことに、喜びを感じているさまが、伝わってきます。

この場所の清涼感と、静かさは。犀星が生きていた時と同じように、令和の世にひっそりと息づいています。


近年のオーバーツーリズムは、この軽井沢さえ飲み込み。一昔前の空気感は、全くありません。

ましてや、昭和初期。この場所に多くの作家や詩人が集った気配のようなものを感じ取るのはもはや不可能でしょう。

ここに押し寄せる大陸の方々にとって、ここ、室生犀星別荘は、蚊帳の外であるためか。ここだけはかろうじて、その静寂さが保たれています。


戦争前には、毎年六月になると、犀星さんが東京から一人でここを訪れ、冬と戦ったこの場所を掃き清めたのだといいます。

そして夏には家族と一緒にやってきて、冬が来る前に、また東京へ帰ります。

戦争中は、ここへ疎開して数年間暮らしたようです。


この庭は、犀星さんが、ほぼ一人で作り上げて、いつも縁側の隅に座って、そして詩作に励んだのでしょうか。

いわゆるエッセイのようなものも残していて、その中に、交友回顧傳。みたいなものがあります。


師匠である北原白秋。同門の兄弟弟子としての萩原朔太郎。後輩の堀辰雄。憧れの存在だった高村光太郎。

などのことを、犀星自身から見た目線で、生き生きと書き残したものです。

このエッセイが優れているところは、全てを身近に見ていて書き残したものであるという点でしょう。

その生々しさは、あたかも歴史上の人物が、自分の友人であるかのように感じられる手触りです。


萩原朔太郎の人の目を見れない臆病さと、その対比であるかのような攻撃的な文章。

この時代に2度も離婚を貫徹したほどの猛烈な意志の堅牢さとぐにゃぐにゃな人となり。


後の世の他人が、窺い知るべきではない光太郎と智恵子の関係性。これは聖域と言って良いほどのもの。


物静かで、柔らかい堀辰雄という人の息遣い。

結核と戦い。寝ながら印税を受け取り、寝ながら領収書を書いて、寝たままで評価された。堀辰雄に。

素晴らしいものを書いておけば、そのようにできるのが作家というものであるという、悟りを教えられたこと。


それらの出来事は、ここ軽井沢の別荘で、室生犀星が直に見たことなのです。

私がここへ通う意味は、室生犀星という志を、少しでも感受するために他なりません。

ここは、少なくとも観光のための場所ではないでしょう。

明治から始まった近代文学というものの遺構を、肌で感じ取れる、数少ない聖地として、いつまでも残っていて欲しいところです。


朔太郎の全集の出版元をめぐって、朔太郎の弟子の三好達治と、犀星が言い争う場面が描かれます。

今にも掴みかからんばかりの二人の横に、堀辰雄がいました。

そういう時きまって何も言わない堀が、珍しく声を出します。

「先輩には先輩の考えがあるものだから、もう少し控えめに相談しなさい」

青白い顔の堀の一言が、二人を仲裁したという件です。

各々が朔太郎に対して恩があり。思いがある。それゆえの争いでした。


犀星がいつも座ったという、縁側の隅に腰を下ろし、しばし庭を眺めていると。

今にも朝の散歩を終えた犀星さんが、木戸から入ってくるような気配があります。

「やぁ久しぶり。今年も来たのかい。ゆっくりしていきなさい。」「どうだいそちらは、相変わらず萩原は息災かい」


「はい、なんだか担がれちゃって、とてもコソばゆそうですけど....。」


庭に雨晒しの木の椅子が置いてあり、追分からやってきた立原道造は、いつもそれに腰掛けて、仕事をする犀星の背中に声もかけず、うたた寝をして過ごした。

そよ風が頬を撫で、からだぐるみで風にまかせて。


言の葉の庭には、今でもそんな風が吹いている。


 
 

Appia . meccanica - Shibata ~ Racing

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