姫街道に竜胆がゆれた

更新日:6 日前

群馬はその昔、上州と呼ばれた。
下仁田街道は中山道の脇往還として古くから賑わった。
小幡はかつての面影を色濃く残し、一ノ宮として名高い貫前神社は、今も富岡の繁栄をみとどる。
本宿からのびる和美峠は、緩やかに昇りながら高度を上げ、追分へと抜けている。長野道開通以前は、夏の軽井沢への裏ルートとして利用され、タイトなワインディングは、今でもバイクにとっては魅力的で、心地よい清涼感とともに南軽井沢へとはこんでくれる。
江戸時代、この峠は信州からの物資を江戸に届けるため、また善光寺への参拝客などで賑わいを見せた。関所の寛大さと、峠の緩さから多くの女旅を助け、別名「上州姫街道」とも呼ばれた。
まだあれから百五十年。街道の至る所にあの頃の闇は残る。
苔むした庚申塔のさきに新緑の蔭が、時の流れをかたるように揺れておよいだ….。

ずいぶん昔のことになる。アウトライダーという雑誌で、1年間あるコーナーを担当した。
それはグルメやツーリングを読者に紹介するコラムで。内容は自由だと言われた。
私はデカ盛りや、ソフトクリームの名所などを紹介しても仕方ないと思ったので、自分しか知らないだろう上州。かつて木枯し紋次郎が、関八州の追手を絶えず逃れながら、彷徨い歩いた道を辿って紹介しようと考えた。
副題は「紋次郎が歩いた道」この紋次郎をどれほどのかたが知っているかはわからないが。今でも江戸時代と全く変わらない風景のこの埃っぽい村を、現代のカーボーイが乗る最新のハスクバーナで尋ねてみてどうよ。みたいな企画だった。
狙いとしては、紋次郎が歩いたであろう江戸の村に、宇宙的なオートバイがさりげなく置かれることの違和感を楽しみたい。
それをモノクロフィルムと、オールドレンズで写してみたら。という。
もっとも、木枯し紋次郎は笹沢左保氏のフィクションであり、そのような渡世人はいなかったんだけれど....。

上州。つまりは群馬は天領だった。
天領とは二公八民という制度で、年貢は収穫量の二割納めれば良い。そして徳川家の直轄領だった。
こと関東の八州には、殿様がいなくて、年貢もゆるいから、当然悪の温床にもなる。地元にはいわゆる元締めというものが幅を利かせていた。こんな具合だから、賭博は公然と行われ、宿場女郎や飯盛といわれた、現在の風俗産業も、盛んだった。
当然それを取り仕切るシステムも成熟したのがこの江戸期だ。
倉賀野には、当時亡くなった女郎が投げ込まれた寺というものも今でもあり。日陰を見れば、まだ江戸時代はすぐそこにある。
中山道と佐渡奉行街道の二つの大街道が貫くこの上州は、当然のように宿場が発達し、栄えたのは至極当たり前のことだったろう。
そのうえ、殿様直轄の警察機関も存在しない無法地帯である。
これを見回るのは関八州取り締まり出役という役人数人で。時々各地を回るのみ。
その見回りも事前に地元の親分衆には通達され、饅頭という袖の下が渡されることで、色々な犯罪は見て見ぬ振り。
こうなると、無宿人という、いわば浮浪者には、捕まる心配の少なかった上州は、旅の最適地ともいえた。
無宿人は容疑も詮議もなく捉えることができ、あたりまえに佐渡や八丈島に流され、苦役に従事する宿命があった。
気に入らないという理由だけで、農民が鍬や鎌でなぶりゴロしても、役人からはなんのお咎めも無い。
いわば紋次郎達はいつも身の危険に晒されていたわけだ。
江戸期の旅で最も大変だったのは渡世人ばかりではない。それは女達である。
幕府の掲げる、「入り鉄炮に出女」を徹底的に取り締まる。という方針。
その意味は。江戸に鉄砲等の武器が入ることを許さず。徳川の人質でもあった、各大名の奥方や婦女子が勝手に国本へ帰ることを絶対に許さないという。それを司ったのが各街道に設けられた関所の存在だ。
そんな時代でも、幕府公認の抜け道というものは用意さfれていて、中山道の脇往還である姫街道では、関所の検めも厳しくはなく、その峠の行程も、中山道の碓氷より穏やかであった。

この街道沿いには、富岡の貫前神社という一宮が今でもあり、こうした寺社を徳川が保護したこともあり、姫街道周辺の宿場は、かつて中山道よりはるかに賑わっていたのかもしれない。

富岡から、信州追分に抜けるには、和美峠という険しい峠を越える。
しかし当時は、ここを佐久平からの米が行き来し、多くの婦女子が超えたことなどを考えると、意外に傾斜がゆるかったのではないかと思える。
今でもその頃の名残を存分に残すのは、本宿という地域で、ここはほとんど当時の道幅や、家並みがそのまま残っている。

村の出口には、清水ザワの百庚申という場所がある。ここには大昔からの庚申塔が積み上げられていて、普通にゲゲゲの鬼太郎の世界が展開する。
庚申信仰は、こうした貧しい村々の数少ない楽しみとして各地で発展した。
内容は多くは語らないが、今でいう合コンのような祭りで。大義としては、この夜には決して男女は交わってはいけないとされ、その晩に身籠った赤ん坊は、必ず盗人になると言い聞かされた。
厳密にそれを守るために、女人講といわれる、女性のみの集まりなどが行われていた村もあった。
そもそも祭りというものが、日本における合コン的なニュアンスがあることは現在のハロウィンなどを見ても否定できないが、大義では、その交わりを固く禁止しながらも、何百年も続けられている裏にある、村の事情を考えると、自ずとシステムも理解できよう。
あくまで概略は、腹の中のサンチュウが、夜中に閻魔大王に、人間の悪事を告げ口しないように、庚申の夜は一晩中寝ないで、みんなで集まろう。という会で。
これはどう聞いても無理のある、なんだかよくわからない催しともいえ、それが日本中の村々で行われていたことに本気で目を向けると、この日本という国、そこに集う民の心情が少しだけ理解できる可能性がある。ニッポンからは、ムラ抜けも島抜けもできない。
ザビエルのイエスが、決して日本に本当の意味で根付かなかった背景には、バテレン禁止の他にも、こうした地場の信仰が根強かった可能性も否定できないだろう。楽しい夢パライソは、六がつく日に、毎月すでにあったのだ。
ザビエルはわずか2年ほど日本にいた。ロヨラが7人で起こしたイエズス会は、現在は世界中に信徒を持っている。
ザビエルのような真の心の清き人は、わずか2年の活動で、500年経っても異国の日本で語られる。
信仰とは関係なく、このザビエルというバスク人に対して、何かいいしれない親近感を誰もが抱いていたという証として、教科書に肖像が載っていたりする。しかし、ロヨラを誰が知っているというのか。
では残る人と、消える人の間には一体どんな違いがあるのだろう?私はそれは心の質の違いだと思っている。まだおぼろげに...。
これは生涯をかけて熟考に値する問いだろう。
戦で王である父が殺された後。19歳まで。薄暗く冷たいザビエル城の石の小部屋から眺めた窓の先に、彼は一体なのを見ていたのだろう。人の一生とは全くわからないものである。

忘れられて、今や打ち捨てられたわずか150年前の日本。
裏街道はまるで陽炎のように、私たちにこうした痕跡を浮かび上がらせてみせる。日本中に八つ墓村があったのは、つい昨日のことだ。
上州新田郡の三日月村の貧しい農家に生まれたという紋次郎は、無宿渡世の道から脱出する方法はなかった。
一生捕まらないために、できるならトラブルに巻き込まれないために、絶えず移動する。
紋次郎が言う「別にアテはねぇが旅は急ぐもんと決めておりやす」
私のツーリングも、早く帰っても仕方ないが、いつも急ぐもんと決めていて。一緒に旅したメンバーは、満足にタバコも吸えず。
つぎの一服がいつ、訪れるのかさえ、さだかではない...。



