歴史的にみて、名作エンジンというものは数あります。名作の条件は、その性能も重要ですが、なにより多くの人に長く愛されたこと。日産A12型エンジンは、その筆頭でしょう。
2024年11月10日
私のとってのアナザースカイ。それはいくつもあるのですが。
もしエンジンの鼓動で言うならば、日産A12型エンジンになるでしょう。それは子守唄であり、懐かしい家族の声でもあるからです。
このエンジンは、まずOHVだったこと。それが誰にでもとっつきやすく、壊れにくかった要因でしょう。
私の記憶では、子供の頃のマイカーとして、210サニーのバン。次に310サニーのバンです。
なぜバンなのか?と言うなら、うちの商売がうどん屋だったので、父親がこれで出前をしていたのです。
小学生の頃から、手伝いで横に乗せられて、カワスミ家具という工場へ夕方出前に行きます。
今日はソースカツ丼40個デス。
2階の食堂まで、何回か往復。その時、いつも快調に奏でていたエンジン音。それがA12型でした。
18歳になった頃、うどん屋はやめて、父親は古巣の日産へ戻りました。
ある時学校に電話がきます「オメェ、110サニーのGXが隣の板金屋に入ってるで」これはどう意味かというと。
サニーの中古が一台あるんだけど、お前はそれが必要ではないか?という群馬弁で。
父親は特にこの辺の言葉遣いが強烈でした。私も年々こんな感じですが。
聞けば車検一年付きのGXで、私が買わないなら解体する。ということでした。価格は1万円です。
どこかの主婦が、これに乗ろうと買ったのだけれど、あまりに強烈で、とても乗って歩けないから、引き取ってくれと、小池板金に持ち込んだのだそうです。
すでにS30Zに乗っていた私ですが、二つ返事でこれを購入します。
有鉛仕様で、SUツインキャブのついた、圧縮比10のハイポテンシャルカーは猛烈に強烈で、少しでもアクセルをラフに扱うと、コマのようにスピンします。
これはテールが軽いことと、ホイールベースが短いことに起因していて、ノンスリップデフを付けると、今度はハンドルを切っても直進します。アクセルオンで旋回が始まり、綺麗にドリフトしていきます。
私はこれが楽しくて、フルチューンに舵を切ります。
当時、110サニーのレースフォモロゲーションが切れる年で、サニーのレースカーが何台も解体屋に積まれていました。
私の兄の友人たちは、このサニーでフジのツーリングカー選手権に出ており、この車にまつわるレーシングパーツが、文字通りゴロゴロ転がっていました。
足回り、エンジン、ミッション。などをレースカーから移植された私の110GXは、公道を走る無敵のレーシングカーに化けました。
しかし、この車は、ロータスを買うときに、解体に出してしまい未だに悔やまれるわけです。
その後、ミニバイクレースを始めるにあたって、トランポが必要になり、兄の家の竹藪に突っ込んであったサニトラを直して乗ることになります。
ボディーや下回りが錆だらけで腐りかけていた車でしたから、「やめときない」と兄から言われましたが、当時自動車修理工だったこともあり「俺が直して乗るわ」と、タダでもらいました。
私が勤めていた自動車屋は、小型部門や大型、重機などを手広くやっていて、塗装班もありました。
塗装屋のサブちゃんに、「これ塗ってくんねえかな」と相談すると、「こんなきったねえ車、何色にするんでぇぃあ?」と聞かれます。
私は部品部の机の引き出しを一つもぎ取って、サブちゃんに見せます
「この色にしたいんだよね、コクヨの事務机の色に」
このコクヨカラーは、零戦21型の色で、田宮では明灰色という名前です。
天井はバニラホワイトで、ツートンにしてもらいました。
このサニトラ、通称「ゼロ戦」は、ここから15年。私と共にありました。どこに行くのもゼロ戦。それはレース場から買い物まで、これ一台。日本中のサーキットへこれで行き。「冗談でやってるんですよねぇ」と疑われたり。いやいや本気でこれ一台だったんです。
何せ猛烈に燃費が良かったことと、痩せているとはいえ110と同じA12型ですから、かつてのGXの片鱗が少しだけ残っています。
あるとき、ハスク積んで高速を走っていました。いきなり嵐山あたりで車体が傾きました。
メインフレームが腐って折れてしまい、なんとか家まで帰りましたが、車体が傾いて、もう再生不能になり。買い替えが余儀なくされて、現在のキャラバンになりました。2004年のことです。
OHVのボロローというエンジン音は、今でも脳裏に残っています。
もし私がもう一回だけ新車を買うことができるなら。
迷うことなく110サニーGXしかないでしょう。不可能なことは十分承知していますけど。
あれほど手の内に入る車というのは、一台もありませんでしたから。
現在の自動車模型の世界基準はここまで到達した。買うかつくるか、みなさま次第。