あるいは人それであれ
- shibata racing
- 4月5日
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高山彦九郎という人が、我が郷里の上州新田郡に生まれたのは、寛政年間のこと。
農民でもなければ武士でもない。近所の代官は、これは奇人である。と、イミづけます。
そうなると、その時代ではなんでもアリだったようでした。

2025年4月5日
かつて寺山修司は、「なにしてる人?」と聞かれると「詩人」と答えていました。えんぴつ無宿であると。
火野正平さんは「役所こうじです」と名乗っていました。
とかく社会は、その人を職業でくくりたがります。
「詩人」と書くと、地方の旅館に泊まった時でも、怪しまれなかったといいますから、人は、なぜかその人の肩書きに安心する生き物のようです。名刺とかいう紙切れとかね。
岡本太郎が、ある時こう問われます。
「あなたは絵も書くし、彫刻もする。文章も書くし、講釈も話す。本業はなんですか?」
こう問われた太郎は、「どうしてもっていわれるなら、人間ですね」と言い放ったそうです。
私も時々「シバタさんて、バイク屋ですよね?」と問われることがあります。
やはり、文章も書くし、写真も撮るし、ギターも弾く。時々絵まで描く。
こうなると、ただ手広く、なんでもやりたい人間のように、他人には映るようで。
バイク屋なんですよね。と括って安心したいようです。
いうなれば私も「ニンゲンですね」と答えますよ。
例えば、普段朝から晩までスーパーで働いてる人が、家に帰って一生懸命小説書いていたら。
その人の職業はなんですか?
では、みなさま。今の職業以外で自分を語る術をなにかお持ちですか。
高山彦九郎に関しては、なんの資料を見ても、おんなじです。
勤王思想家。吉田松陰に影響を与える。切腹自殺。
そして必ずついて回るのは、三条大橋にある「土下座の銅像」これだけです。
例えばこの新聞の記事なんか。ウイキペディアの丸写しだね。恥ずかしい。
しかし、これが司馬遼太郎にかかると、一気に生命力を持ち、あたかもそこにいるように姿が見えてくるから面白いです。
「山谷を歩き、諸国を訪ね、志を述べ、意気にかんずれば抱き合って哭き、ただの一冊の書物も著さなかった。」
なにがやりたかったのですかね。
農民であるのに、帯刀して近所を散歩するから、代官所に連れてゆかれ。それでも堂々として、なにが悪いのか?と逆に代官を呆気にとらせ。「奇人」の肩書きを得る。
妾二人をは実家に置き去りにして、時々金がなくなると、兄から旅費を容赦なく無心する。
平気でまた出ていって、遠慮を知らないかと思えば、祖母が亡くなった時、墓の隣に小屋を立て、3年間喪にふくす。
律儀なのか恩知らずなのか?
京都が火事だと聞けば、大急ぎで駆けて行き。途中で山賊に襲われても、逆に怒鳴りつけて山賊の方が逃げた
「ぬしらに関わってる暇はない」と恫喝。
最後は謎の切腹「狂いました」と、見届けにやってきた藩史に自らの口で微笑みながら伝える。
この人を、ただ、勤王思想家という括りで片付けてしまうのが、歴史というものです。
好奇心旺盛の真人間。という風に私には映りますけど。
この、ただの人が、200年も語られるのは、時勢の都合。というものでしょう。世の中が変われば都合が悪いのかもしれませんが。
書き記したほとんどの書物は自ら破棄し、なぜか大量の日記だけが残る人。それでもなおかつ、後世に語り継がれるバイタリティー。
私たちが見習うべきはその旺盛な好奇心そのものでしょう。
彦九郎を襲って怒鳴られた山賊がのちに捕らえられ、「生涯で最も恐ろしかった」と彦九郎のことを語ったと記されています。
金を浪費し、人生を浪費し、命までも浪費した。
しかしその浪費は人間にとって最も贅沢な時間だったろう、と司馬さんはむすびます。
「どう生きるのか?」そんなアニメがありましたね。
吉田松陰の弟子たちによって明治は作られ、それは今もって日本という国の根幹をなしています。
吉田寅次郎はどうして松蔭になったのか?一体どれほどの影響を彦九郎から受けいていたのか?
その答えは彦九郎の戒名を見れば理解できます。
「松蔭以白居士」
えぇっ。それって今の日本を作ったのは、高山彦九郎?ってことぉ〜。
高山彦九郎。我が上州の偉人です。
いや奇人か。