おめにかからぬからこその
- shibata racing

- 6月27日
- 読了時間: 6分

文通というものは素晴らしい。これは同性異性問わず、互いの心を通わせる手段としてこれほど素晴らしいものはないだろう。
現在の若者は、この行為を経験せずにここまで人生を歩まれてきた方々も多いに違いない。
しかし、大昔から人と人がコミュニケーションをとる。まして遠方の友ともなればなおのことだ。
友人との手紙などもそれはそれで楽しいのだが、一度も会ったことのない相手との文通ほどときめくものはない。
そこには想像を張り巡らせる余地がある。これは決して馬鹿にできない感情で、この期待感ほど人を嬉しくさせるものはないのだ。
買い物依存症というものが現代人の病気の代表選手の一つとなっている。
何かを買うと次に買うものの下調べを始める。吟味を尽くした末に、できれば一番安いサイトに辿り着き、一個のものをゲットできた時の嬉しさ。これを楽しんでいる。
買って仕舞えばもうよくて、箱を開けて一度見れば満足、ことによれば、箱すら開けていない。なんて話も聞く。
すぐに次に買うものの物色が始まってしまっていて、箱を開ける暇がないという。
これはオートバイにも当てはまり、買いたい時は散々相談され、電話もかかってきて、「今ヤフオクに出てるんですけど、見てください。どうですかね?」なんてことも二度や三度ではない。
スったもんだで購入したのだけれど、考えていた以上にボロっちい。「あぁ次は何買ったらいいですか?」知らないよ。という感じ。
こんな味気ない買い物地獄の現代になってしまった原因の一つが、文通をしなくなったからだと私は思っている。
手紙には、時間的隔たりがある。
郵政局がいくら頑張っても、ポストから回収して、彼の地に運ぶまで、最低でも丸一日タイムラグが生じる。
「こちらは今雨が降っていて、軒をつたって雫が哀しいです」なんていう哀愁たっぷりの文章が、ドピーカンの朝に届いたりする面白さ。数日前の時間を追体験するような。過去をもう一度なぞるような。あたかも時をかける少女の言葉は、時間を一気引き戻す。
それが今は、メール。これも古いか。ラインか。なんと味気ない。
そこに余白はなく。「今、二郎食べてます。」「ああ美味しそう」「熱いよ」なんて。全く時差がなく。写真までついてくる。
あたかもそこにいるような臨場感でやり取りが行われる。ラインされた人間は運転中だってのに、僅かな信号待ちの間に返信する。既読無視ほど失礼なこともないらしい。
全く味気ない、世知辛い。そこに心などは通わないんじゃぁないだろうか。
太宰の小品集には、女性の一人称告白体の、手紙にまつわるひとり語りが数多くある。
そのひとつ「恥」という作品は面白い。
女性が、もう私は消えてしまいたい、灰をかぶって転げ回るほど恥ずかしい。みたいなことを告白する。これは女友達に宛てた手紙で告白している。
彼女は、太宰らしいある小説家に手紙を出す。
最初は匿名で。なのになぜか、その小説家は、それが誰で、誰の娘かまで、突き止めている。と勝手に勘ぐる。
「自分は自堕落で、頭が禿げて、歯が抜けて、破れた畳の上に新聞紙をひいて、焼酎など飲んで、道で寝たりしている」と告白し、気取った文体など書きながら、実はみっともないのだ。というようなことを書いているから。
より一層自信をつけたファンの女子は、今度は実名で、「あなたはみっともない、教養もない。もう少しまともになる頃会ってあげます」という返事を書く。
夢が破れたファンは、もういっそうのこと会いに行ってしまおうと考えて、そんな汚い家には汚い服で、歯が抜けた作家に会うなら自分も差し歯を外して、ハッカケで行ってしまおう。
手紙の住所を尋ねると、ぼろ長屋などではなく、瀟洒な平屋の住宅に、庭の植栽も手入れがされて、出てきた奥様は上品だった。
部屋に通されると、キリッとした清潔感のある作家が、机に向かっている。頭は禿げておらず、歯も欠けていない。着物は上品な布地で、その女性が出した手紙の事は覚えていないが、たくさんきてますから、後で探してみましょう。などと。心を通わせて全てを曝け出していたのが恥ずかしくてたまらなくなる。
「私が出した手紙返してください」と懇願すると。後日、手紙二通が送り返されてきた。
この後に及んで、まだ少女は僅かな期待を持っている。その封筒に作家からの「先日は失礼いたしました。」とかの慰めが入れられていることを。
期待は見事に裏切られ、自分が出した手紙以外、他には何も入っていなかった。
文通にはこうした現実も多くあった。
期待して膨らみきった妄想が、実際にあった瞬間に砕け散る。あれほど小菊のような彼女が、実は大樹のようだったとか。すらっとした王子だった彼が、ねずみ男のような不甲斐ない上目遣いだったとか。これもまた人生のキビだったろう。
ただ、文通時代は男が女だったり、女が実は男だったりする事は少なくて、現代のように、ラインを交換していた少女が実はおっさんで、アマゾンギフトカードを買わされたりするような落とし穴は少なかったように思う。
文字は人を表すから、会ってイメージと違うと感じても、話すうちに、確かにあの文字を書く人だと思いあらためて、冷静になって出会いを楽しんだりするのが、文通というもののクライマックスなのだ。そこがピークか、発展するかは時の運だろう。
もう30年前になるが、「ハル」という映画があった。
私にとってはこの映画が、人生のこの5本のかなり上位にある。あと4本も森田芳光率がかなり高いのだけれど。
これが公開された時、世の中にパソコン通信というものは普及していなかった。ラビィというパソコンでニフティーというコミニュティーでフォーラム内で会話する。という高度な世界の中の出会いを描いている。
当時のパソコンは70万円で、しかも使用できるスキルを持った人も稀だったから、そもそも当時の我々一般人には、この映画の中で何が行われているのか全く理解できない。
フォーラム内で気が合った二人「ハル」と「ほし」は、個人的にメール交換を重ねる。自分の恋愛観や、恋人のこと。仕事の悩みなど。そこには随分と嘘もあったが、言葉の端々から感じられる人となりに、二人は愛情に近いものを感じるようになる。
ある日、青森への出張のため、東北新幹線に乗ることになったハルは、盛岡に住む「ほし」を一目見たいと提案する。
赤い服を着て、田んぼの真ん中で、赤いハンカチをふる「ほし」の姿、新幹線の窓から白いハンカチをふる「ハル」。お互いにビデオカメラで撮影をしている。
それまでインターネットの中だけに存在していた文通相手を、実在の人間として認識する。
コンパニオンをしている「ほし」は地元の若手有力者から結婚を提案される。
「思い出を持つもの同士、互いに干渉せず思い出と共に生きよう」少し付き合ったのち、ほしは別れを切り出す。
「思い出を消してくれる人と出会いたい」からと。
男はポツリと呟く「また思い出がふえてしまった....。」
些細な行き違いから、メールをよこさなくなった「ほし」。
理由がわからない「ハル」は悩みながらも、一方的にこれからもメールを送る。と決心する。過去のメールを読み返して、自分が彼女にどれほど支えられていたかをわかったから。
開き直ると、不思議なもので。溜めていた感情が一気に爆発するのが、女性という生き物。「ほし」は一通のメールを送る。
「東京へ行きます、会ってください。」
森田芳光は、出演の二人をこのラストシーンまで一度も合わせずに、撮影を続けていたようだ。
それは、映画の中でもラストに、一度しか会わない「ハル」と「ほし」の感情領域に、二人の役者の気分が高まるようにと。


