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奴隷訓

  • 執筆者の写真: shibata racing
    shibata racing
  • 3 日前
  • 読了時間: 7分

更新日:2 日前






社会の奴隷にならないほうが良いんじゃないか。

という本を出したのは、作家の田中慎弥さん。小説ではないコラム要素の本なので、私は立ち読みをして読み切った。

彼がここでいうのは、仕事が君で、君は仕事でできているわけでは無いだろう?

という漠然とした現代の呪縛に対する脱却の詩だった。


日本人の美徳は勤勉さであり、成功報酬が自らの価値であるかのような社会構造がある。

人生が仕事なのか、それが人生なのかもはやわからなくなっている人たちが多い世の中で、毎日苦しんで仕事に向かうのはいっその事

やめてみてもいんじゃ無いだろうか。と田中さんは提案している。本当にそれほど働く必要があるのだろうか?


この方は作家で、自分はモノを書いて生きているので、社会の中で働いたことがないからそういうわけじゃなくて、実はやめてみたら、本来の自分を見つけられる可能性もあるかもしれない。と綴る。

皆様の中に潜む別の生き方への可能性を示してくれている。


私と田中さんは、スマホを持っていないという点においてだけ共通点があるが、文章は未だに手書きであるという点では、アナログ度で負けている感じはする。また文章などは、命のかけっぷりがまるで違うので、全く似ていない。作家さんにはこうであってほしい。


物事は脳が考えて、手からペンへ、そして紙へとつながってゆくことが自然であるということはよくわかるが、とかく現代人はペーパーレスとかいう方向に向かっているのも事実だろう。紙に手で書くことは身体からの滲み出すエキスの具現化だ。

しかし、田中さんのようないまだに原稿用紙に手書きして社会と折り合わず、自分の世界と向き合って生きるということはしんどいし、どんどん難しくなっているような気がする。

手書きということは誰かが眠い目をこすりながらデータ化するということを意味するし、その後また校正をしなければならないということで、印刷媒体に持ってゆくまでに物凄く手間を食う。

芥川賞授賞式での「貰っといてやる」発言が物議を醸してから15年以上、田中さんは第一線をいまだはずれない。


繋がる世界が一見当たり前になっているようなのに、実際は孤独を抱えている人は多いようで、誰にも本音は話せない。

一言でも漏らせば総叩き。この感じは、昔はなかったし、叩く人は面と向かって、叩いた。

それは野坂昭如が、奥さんの小山明子さんの目の前で、大島渚を殴ったように


別の書籍コーナー。オートバイコーナーは相変わらず終わっている。

平積みされているのが、フレディースペンサーのすべて、とケニーロバーツのすべて。みたいな彼らの写真集だという時点で、オートバイ文化そのものは、80年代で終了したのだろうと感じる。


そのほかに目を映せば、モリワキの軌跡。や、バリバリ伝説白書。みたいなもの。

ほかに語るべきものがないから、編集部も苦肉の策なのかもしれないが。同時に、この時代に若者だった方々が、偉くなってあの頃を懐かしんでいるのだろうか。

そもそも、若者はまず、バリバリ伝説ってなんなのか?から検索しなくてはいけないということがわかっていない。とかくその中にいると外の世界が見えなくなり、自分の価値はみんなの価値だと勘違いする傾向がある。

こういう状況で、若い読者を捕まえようったって無理だろう。読者は年寄りしかいないと思っているとしか思えない。


私たちの世代は、バイクの一番良い季節を過ごしてしまったがために、未だにあの頃の感動が忘れられず、若い世代に繰り返し語ろうとするが。若者は実はもっと建設的に未来を見せて欲しいはずなのだが、そのネタが我々にはないことが問題なのだ。

私も君たちに見せる未来は思い描けない。こういう物事を発信する世界では、できるだけ脳が退化したら早めに退く覚悟が必要になる。


なぜ今でもそうなのか?

ケニー、フレディー以降にもライダーはいたはずなのにまるでいなかったようになっている理由を少し考えると、オートバイというものを人間のポテンシャルで、ねじ伏せた最後のライダーが彼らだったのかもしれないと思う。F1でいえばセナくらいまでがその世代だ。

それ以降、あらゆるデバイスに制御され、それがエスカレートした今では、すべてがアクティブ。サスも点火も混合気も。すべて適正に制御されている。


今のmoto GPレーサーなどは、ツーリングすら可能なくらいに従順にも走るし、目が眩むスピードも出るようだ。

それはもはや人間はただその上に乗っているだけで、まるで機械の奴隷のようになって指示を出しているようでいながら、機械に指示を出されているからじゃないのか?そういう人間力が問われなくなっている技術合戦のようなレースにはもう興味が持てないのではないのか。

たとえばそういう機械に初心者が乗ってもいきなり早く走れたりもするが、彼らは未熟なので危険は予測できないし、止まることもできない。いわゆる予測走行は経験からしか学べない。


バイク雑誌業界にデジタルの波が押し寄せた頃、まだ私の原稿は原稿用紙に手で書いていた。

それを編集部がデータにする際、かなりの変換ミスが多かった。ある取材の帰りにファミレスでその話題になった時、ローマ字入力かカナ入力か論争のようなものがあった。一太郎かコトエリか論争と呼ばせてもらおう。

G氏は、猛烈にカナ入力推しで、ローマ字でものを考えると自然な日本語にならないと指摘した。

「シバタさんの原稿が面白いのはいまだに日本語でものを考えているからだ」という意見だった。

その頃は手書きかワープロかパソコンで書くかの大きな過渡期だった。その時から今でも、書きモノは日本語で考えるようにしている。


ツーリングに、マップルという本を持っていくライダーも激減しているようだ。

それは電話のマップ機能が発達したことで、ああいう本などはもう必要ないらしい。

しかし、電話で見ているお客さんに、「その先どうなってる?」とか「下の方はどこにつながってる?」なんて聞いても決してフレキシブルではないし。基本的に自分がいる場所を中心にしてその周辺を見ることがその機器との関係性であるようだ。

つまりは俯瞰で物事を把握できない。これではGPSの奴隷となって旅をするようなものだ。アホらしい。


私は、マップルを持っていっても現場ではもう見えないので諦めて、いよいよどこへ行くにも手ぶらで行くようにしている。

「シバタさん地図一度も見ないですよね」と言われるが、実のところ、見えないから見ないわけで、私も結構適当に走っている。

流石に老眼鏡持っていくのもどうなんだろうかと思っているから、「太陽の位置と風の匂いだけが俺の道標だ」なんて嘯いているが。


適当に散々走ったあと、家に帰ってパソコンのマップで今日走ったエリアをつぶさに観察すると、「なんだよあそこは右だったのかよ」とか「まるっきり逆だったんじゃねえのか」などと一日の愚かな道選択ミスを振り返れる。

いわゆるひとり反省会だが、これを繰り返すとだんだんまた道を覚えたりするし、走っている時は当てずっぽうなので、アドベンチャラーライクにエキサイトするし、その瞬間には新しい刺激が溢れているので、真っ直ぐな道でも嬉しい。


予定調和という言葉があるが、現代ではすべてが電話やナビの指示任せな側面があるので、むしろ「予定通り」にことが運び、文字通り調和が確立されている。

でも私はツーリングくらい予定不狂和で、偶然の積み重ねで過ごしたい。

普段社会の奴隷になっている皆様も、この時ばかりは自らの意思で走れるのだ。

家庭や人間関係のしがらみから逃れて、自らの意思で思いをカタチにできる数少ないチャンスがバイクライディングなのかもしれない。


オートバイ業界は、その性能ばかりを紹介し、全く関係のないグランプリレースを取材することに躍起になりすぎて、本来のバイクとの関わりの提案を疎かにしてきたのかもしれない。

ここからはオートバイというものを、日常という奴隷からの解放の手段と捉えてみたらどうだろう?

これが今思いつく若者に向けた私からのお楽しみのアプローチだ。


私のように、ここまで経験を重ねると、もはや近所には知らない道がなくなってきているという新たな調和が生まれてしまってはいるのだが。

しかしまだまだニッポンは広い。


知らないまあぁあぁちぃを歩いてミィたぁあい〜。と、誰かが唄っていたっけね。


すっかり夏も終わり、秋の長雨シーズンに突入してしまった。

出かけられない秋の夜は、マップルでも眺めながら時間旅行をしよう。おともはこんな曲で、それは静かなフライトのような。


 
 

Appia . mecccanica - Shibata ~ Racing

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