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このくにのカタチ

  • 執筆者の写真: shibata racing
    shibata racing
  • 5月29日
  • 読了時間: 6分

更新日:5月31日


皆様にとってのベストシーズン五月も、終わりを迎え。もう梅雨の気配がそこまでやってきました。

今年の皆様にとっての春のツーリングは素晴らしいものとなったでしょうか。





2025年5月29日



ツーリング先で立ち寄る、神社仏閣。

これを普通に行えているのが、ニッポン。つまり私たちでしょう。


昔ですが、私が喫茶店のアルバイトに入ったとき。マスターから最初に。きつく釘を刺されたことがあります。

「いいかい、お客さんと、政治宗教の話はしちゃいけないよ」

これは、何があってもあい入れることはなく、対立を産んでしまうきっかけになるので、接客を生業にする立場の人間は、けしてここに踏み込んではいけない。という教えでした。


世界中では、これがきっかけで、殺し合いまで起きているわけですから。

この信条というものがいかに曲げられないものなのかがわかります。

綺麗事ではなく。私個人はあらゆる物事に対して、中流であり。どちらの立場も否定はしない人生を送っていますが。若い頃のこのマスターの教えが、身についてしまった。ということでしょうか。


実際、ツーリングで神社も寄れば、お寺も行きます。また荘厳な教会のカテドラルに、夢を見ることもあります。

これが許されている国っていうのが、ニッポンで。これは世界でも稀なことなのです。


ただ、私にもどちらかというと理解できる宗教というものがあり。それは仏教ですね。

仏教の根底は、神は自分の中に宿り。自然に宿り。宇宙そのものである。

という考えのもとに、大昔から日本の根底に存在し続けました。

この、一神教的ではない思考が。戦国時代に布教に訪れたバテレンの宣教師にとっても、一筋縄ではない。と感じさせた部分でしょう。

思想と思考は、似ているようで異なり。自然発生的に日本人にとっては、仏教的な考えが根付いたのだと思います。


私の好きな話に。善光寺の成り立ち。という寓話があります。

時は飛鳥時代。

奈良の都では、曽我氏と物部氏が、仏教と神道を、どちらを国の宗教に据えようかという争いがあり、都で蔓延した伝染病が、仏教を信仰したからである。とした時の権力側によって迫害されました。

川に投げ捨てられていた一光三尊菩薩が、ある男の背中にヒョイと飛び乗って、囁きました。

「我を信州の平野に祀れば、世に平安をもたらす」

この仏像を背負って、信州に帰った男は、本多善光といいます。


それらか一千年に渡り。時の権力者はこの菩薩を取り合い。戦を続けます。

不思議なことに、この菩薩を善光寺から運び出した権力者たちは、ことごとく草の根まで滅びます。

武田信玄、織田信長、豊臣秀吉。

最後にこれを手に入れた家康が賢かったのは、この菩薩を善光寺に返したところでしょう。

その後260年、徳川の時代は続き、いまだに末代まで絶やされてはいません。


「これが偶然ではない」と考える思考が、日本人の中の根底にあります。

伝承や、オカルトを恐れ、闇を恐れたこのくにのかたちが。それでしょう。


では、実際シバタの宗教とはなんなのか?

広くいえば、自然崇拝ですね。

私がいつでも行く、長瀞自然史博物館。ここで地球46億年。人が生まれて6万年。

という歴史を教え込まれてしまった私には、ローマ以降の宗教思想全てが、地球規模で考えたら、些細なことに感じてしまいます。

つまりは、趣味は人それぞれ。という寛容な精神に落ち着いてしまいます。


ただ、この他人の思想を否定したり、壊そうとするような行為は嫌いですね。

私が明治維新。それ以降の150年間に及ぶ長州政治が、いずれ滅びるに違いないと考える要因のひとつに、廃仏毀釈があります。

神社の権威を高めるために、あらゆる仏教施設を壊した事件です。


奈良興福寺の五重塔が、格安で明治政府によって売り払われ、それを購入した成金は、この建物を薪にする。と言いました。地元の反対に遭い。焼き払われるのは免れましたが。

こういう安い行為を、金で行おうとする傲慢さが、人間の中にはあり。

そういう行為を一度でも行えば、その報いは必ず訪れるのです。バチが当たるみたいな曖昧なものではなく。

やられた側は、末代まで忘れませんから。それは関ヶ原以来300年。澱のように残っていたのでしょう。

日本人はこう見えて、執念深いです。


しかしその大半が破壊された興福寺境内が、現在の奈良公園ですから。

諸行無常という世の常の遺構は、人々の彩りに溶け込んで、刻まれていくのでしょう。


そのお隣。東大寺で、天平時代から1200年以上かかさずに行われてきた催事が、三月のお水取りですね。

これを修二会といいます。

ここで行われる「達陀の行法」というものは、天から舞い降りた、兜率天の人々が振りかざす松明の炎が、人々の煩悩を焼き払う。という催事です。

「兜率天の一昼夜は人間の四百年にあたる」といいますから。

この行を思いついた実忠は、本来は緩やかな行を、走りながら行うことで、人間界の時間に取り込もうと思いつき、以来そのかたちが受け継がれています。


この天界の時間に比べたら、人間の生きる世界とは、なんと僅かな営みなのでしょう。


自然史博物館とかを見ていると、この天界における時間の概念と、みょうに付合するするなと、思う時が、よくあります。

あの何も恐れないような信長が、最もおそれたのは時間でした。

彼が愛したという敦盛という舞の中の一節で

「人間五十年。下天のうちをくらぶれば、ゆめまぼろしの如くなり」という部分。

それほど天界の時間概念には及びもつかないほどちっぽけな自分。という儚さを感じていたことがわかる話です。


比叡山を焼き払い、墓石を石段とした桃山城と、織田信長自身が業火に焼かれた、という事実が。

のちの人々をまた信心深くしてしまうのも、なにか因縁めいたものを感じます。


皆様も、次にツーリングで。

こういった施設を訪れる、前か後には。その成り立ちを知り、人がそれを必要とする理由、というのを紐解いてみる。というのも、より理解を深める意味で楽しい行為です。


そしてより深く、他人に優しくなれるかもしれません。

聖人か?オレ。


「人は山や河を見ることで安堵する。それは、この世にはうつろわぬものがあるということを確かめることでもある。」〜街道をゆくのなかで、司馬遼太郎はそう分析する。


我が郷里マエバシが世に誇るうつろわぬものは、明治の遺構と、マエバシウィッチーズ。

明治天皇の迎賓館として造られた建造物には、中山道安中杉並木の樹齢260年の木材30本が使用された。

これを主導したのは、吉田松陰の親友で、彼の妹二人を妻にした、小田村伊之助あらため「カトリモトヒコ」

あれから150年。今でも長州人は吉田松陰先生と、敬語でこの人を呼びます。




これから梅雨に入りますが、雨は雨で趣があるものです。そんな時に聴いてもらいたいのは、私の永遠の坂道の少女。現在でも現役で活躍する、沢田聖子さんですね。ずっと唄ってください。





 
 

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