そこに残るもの
- shibata racing
- 3 日前
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更新日:2 日前
あたりまえの日常。普通に暮らす毎日。それがあたりまえじゃなかったことに気がつくのは、ずいぶん時間がたったあとです。つまらないと思ってもそこに残っていれば財産です。

2025年4月27日
デジカメというものを手にいてれ、それまでの不自由なツーリングフォトが一気に変化しました。
200枚とか撮れる。これに気をよくした私は、それこそ有象無象のツーリング風景を残しました。
「まったくつまんねぇ景色だな」その時はそう思っていたんですけどね。なくなるとね....。
この写真の違和感に気がついた方は、ツウです。
「なんで、眼鏡橋じゃん」ですが。
今この場所には、柵ができて、舗装されて、狭っちい場所になってしまったのです。
かつては、車寄せがあって、記念写真の定番スポットでした。
世界遺産を否定しないけど。こういう誰からも顧みられなかった場所までが、観光客で溢れる現在を、この時の私は想像しなかったんですよね。
残る場所と、消える場所。残るバイクと、失くすバイク。
人生ってゆうのはこれの繰り返しですよ。
この季節は、春。碓氷峠の新緑が、いっせいに芽吹く寸前の一瞬です。
まさしくこの季節、私は今は無き、名湯へ向かうのが毎年のルーティーンでした。
そこは霧積。映画「人間の証明」の舞台となったあの場所です。

霧積ダムから、山に分け入る林道は、温泉までかろうじて舗装されています。
その先には二軒の温泉がありました。
私が毎年訪れるのは、霧積館です。
道が切れる場所。
ここは登山道の入り口にもなっています。
水車が豪快に回り、山の一軒家の情緒を否が応でも高めてくれます。
今はもう全てが跡形も無くなってしまいましたが。

宿は、立ち寄り温泉をやっていて、誰でも入ることができました。
玄関に入ると、奥から腰が曲がったお爺さんが静々と現れます。
「立ち寄りお願いします」「はい500円ね」
システムはこれだけです。
長い廊下の先は、緩くカーブしています。
途中には広い給湯室があり、ここが昔から、山へ向かう基地だった名残を感じます。
タイルの洗面台、アルマイトのカップ。
一体どれほどの語らいと、笑顔が交差したのでしょう。廊下の奥から聞こえる笑い声は、空耳ですね。
廊下が曲がるあたりに、温泉の効能を示す表が示されます。その先にリニューアルされた階段があり、その脇には灰皿が据えられた談話スペースが設けられます。湯浴みの後のひと時ですね。
この季節は、いつも私ひとりの貸切状態で。のびのびと体をほぐすことができました。天窓から差し込む光、周囲に設けられた窓から、湯船に光が揺れて交差します。
誰もいないからこそ、こういう写真も残せました。

六角形の建物に、六角の湯船。透き通るお湯は、肌あたりが緩く。温度は、ぬるいのです。
私は熱い湯がダメで。むしろ伊香保並みのぬる湯が好みですが、霧積はまさしくちょうど良い温度でした。
かつて与謝野晶子もきたようで、俳句などが脱衣所に掲げられています。
恋おおき女歌人は、一体誰とこの温泉にやってきたのでしょう。
「花の命は短くて」とはいえ、あらゆる温泉地にこの女流歌人の痕跡が残っていますから、さすがに進んでたんでしょうね。
映画「人間の証明」は、西条八十の帽子。という詩が、物語の核をなしています。
殺された黒人青年が残した、「ストーは」というメッセージを「ストーハ。つまりストローハット」であると気がついた棟居刑事は、殺されたジョニーの本当の母親を探して、ニューヨークへ飛びます。
ついには犯人を追い詰めた先が、この霧積へ続く山道でした。
「母さん、あれは好きな帽子でしたよ」と謳われる詩は。失くしたものを懐かしむ望郷の歌でした。
それは心の風景であり、母のぬくもりでもあったのです。
今はもうない、あの頃の日常。

初期のデジタルカメラっていうのは、今ほどパキパキじゃなくって、フィルムの延長にあったかもしれない。
それでも当時は、ヤだったけど。
これはリコーGRデジタル初期型。800万画素のカメラだった。もう壊れて、今は2台目。
少しでもISOを上げるとノイズだらけになって、いつもISO64常用だった。
この写真、今見るとダメな構図だったなぁ。
そうだよ、写真っていうのはね、撮っておくもんだよね。記憶っていうのは個人の財産だけれど。それも....。
何もかもがなくなった後に気がつくんだけど。
