わすれられた御牧
- shibata racing
- 4月13日
- 読了時間: 4分
更新日:4月15日
現在の長野道がそらを飛ぶように走るそこは、千曲川が流れる、「たいら」と呼ばれるエリアです。
この道がまだできる前。京都へ向かうそのルートは、急峻な山越えを余儀なくされていました。

2025年4月13日
先日、上田へ行った帰り道は、久しぶりに真ん中の道を通りました。
ここでいうその道は、千曲ビューラインという小高い丘の上を滑るように走る快走路です。
左右の見通しはよく、日当たりが素晴らしい台地といった風情。
ここは平安時代、日本で最高峰の御牧でした。
牧というのは読んで字のごとく、牧場の意味で、これが御牧となると、天皇の馬を生産する場所。ということになります。軽井沢から佐久平には、多くの御牧が点在していました。
各地に今なお残る御牧とつく地名は、かつて皇室御用達の馬の放牧地であったという歴史があります。
特に、このちくまビューラインが伸びる望月という場所は、清少納言が「駅は梨原、望月の駅」と。
行ってみたい夢の場所。というふうに枕草子に残すほどの、放牧に適した美しい丘陵だったようです。
木曾義仲が平家討伐に際して、望月で挙兵して、近隣の馬と兵を集めて京へ登ったのも、そうした経緯だったのでしょう。
今では、馬の影はなく、現在の馬。ハスクバーナのための快走路ですが。

上田から松本方面に向かう先に、別所温泉というものがあります。
古くから、修験道の密教の僧侶。これを、聖と書いて『ひじり』というのですが。
彼らが本社とは違う場所に、集い、修行した場所を、「別所」と呼びます。
古い話になりますが、遣唐使時代に唐から密教の奥義を持ち帰った空海に対し、何もかも不完全なまま亡くなった、最澄という人は、弟子に恵まれた人でした。
その弟子の一人が、師匠の名誉をかけて、唐に渡り、密教の教義を持ち帰ったことで、天台密教はのちに完成します。
その方は慈覚大師、円仁です。

信州別所温泉は、その慈覚大師によって開かれ、湯聖たちが修行した場所で、それを表す、二つの寺を中心に、古い佇まいを今に残し、喧騒を離れた静かな温泉地として、現在もそこにあります。
常念寺という寺の美術蔵には、家康が書いたとされる「日課念仏」という経があります。
それは、家康の先祖もやはり聖である。ということと無関係ではありません。
温泉街の中心地である北向観音は、本殿の常楽寺とは少し離れた高台にあり。修験者の行き着く場所。という風情があります。
この観音堂の謂れは、観音が夜毎現れて、「我をこの地に北向きに祀れば、加護する。」といわれたそうです。
点在する寺や、街並み。外湯などもあり。
その街並みは鎌倉以前の佇まいを残す、いわゆる信州の小京都です。
私はここの温泉に二度入ったことがあります。
外湯は素晴らしくローカルで、夕方でしたので、地元の方とご一緒させていただきましたが、流石に有名な保養地。
そこには排他的な空気はなく、誰にでも親切な印象でした。
ここは塩田平という平野の果てにあり、肥沃な田園を抱えていた形跡が今もって感じられます。

信州には、善光寺平、ここ塩田平。そして佐久平。という稲作に適した平野があり、その脇を急峻な山々が挟み込み、その真ん中に千曲川が流れています。
その昔、長野道ができる前は、中山道で、岡谷に出るか、海野宿から上田を回る北国街道をゆくかの選択を迫られました。
行手には和田峠。その脇には、なを急峻な蓼科、白樺湖ルートが行手を阻み、真冬に京都へ向かう障壁でした。
私は望月から、蓼科に登り、いよいよ登らなくなったら、真夜中、道の途中でスパイクタイヤに履き替えて、雪で埋まったビーナスラインを超え。諏訪から中央高速に乗って、諏訪パーキングで、またノーマルタイヤに履き替える。
という離れ業を使って、真冬に京都へ行っていました。
山道でジャッキアップしてタイヤを4本交換していると、鼻水が凍りつき、息苦しくなった記憶があります。
それも長野道ができてから、遠い昔の思い出になりました。
この、真ん中の道、望月の御牧を走ることも、今となっては必要がなくなってしまいました。
街はどこも寂れて、まるでわすれられたようにひっそりと息をひそめているという印象です。
しかしそこには確かに生活があり、大衆化して無視された人の営みを思い起こさせる残り香が、確かに存在します。
私が高速道路を極力使わないのは、そこに人の息吹が感じられないからです。
とか言って、いまだにETCつけてないからかもね。
