top of page
検索

アプトレールウエイ

  • 執筆者の写真: shibata racing
    shibata racing
  • 4月9日
  • 読了時間: 3分

アプト式というものが、かつて横川から軽井沢までの間の、鉄道手段でした。現在この鉄道跡は、遊歩道になっていて。横川から熊の平まで歩いてゆこことができます。





2025年4月9日



軽井沢が大好きな私は、真冬以外は何かにかこつけて、この場所にオートバイを走らせます。

初めて中型免許を取って走って行った県外。ということもあるかもしれませんが。

私が軽井沢を意識したのは、高校生の時でした。


当時、自転車部だった私は、三年生の時、部員達と自転車で日本海まで行きました。

登山部から大型テントを借りて、五人でそこに泊まるのです。

三泊四日の旅でしたが、多くの困難とトラブルに見舞われながら全員無事に帰還しました。


最後は上山田温泉に宿を取り、やっと布団で寝られたのでした。

翌日、最後の仕上げは上田から軽井沢を越えて、前橋までダウンヒルする、やく100kmの行程でした。

上田からの登り上げは、実はそれほど大したことありません。

最終日前に、私の親が、上田まで来てくれて、全員の荷物を前橋まで運んでくれたことで、まさに体ひとつの軽装備。羽でも生えたようという例えがこの時ほど身に染みたことはありません。


昼前に軽井沢についたので、プリンス通りで、まったりします。

その頃はドカティマイクヘイルウッドが売れまくっていて、軽井沢でも2台見ました。

アンダーカウルを外したハーフカウルスタイルの、赤と銀のNCRカラーのマイクが、鮮烈で。コンチマフラーの音を響かせて、私たち一行を追い越してゆきます。

今ならそのカウル形状から、82年型と分かりますが、その時はただ「俺もドカティ買うぞ」という決意だけが先行していました。


その流れで、碓氷旧道を自転車で下ります。

そこからはまさしく漕がずに前橋まで帰ってきたという印象です。


次にここを通ったのは、高校三年の真冬。

金沢の接骨師の学校を受験するため、特急白山に乗って、このアプト式路線を通過しました。

体がバックシートに押しつけられる感じと、トンネルだらけでひたすら暗い印象しかありませんが。

確かに私はアプトの道を電車で走りました。


そして、接骨師の学校は見事に落ちて、今に至るわけですが。

その後初めての中型バイクで、ここを登って軽井沢に行ったときは。昔年の思いが達成された感じでした。


今は、このアプトの道を、歩きます。

あれから40年以上が過ぎましたが。私にとっての軽井沢。碓氷旧道は。

あたかもタイムマシーンのように、10代の頃へ運んでくれます。

北野晶夫がドライビングするフェラーリ250テスタロッサが、脇を通過したように感じたのは、ただの錯覚でしょうか?


坂本湖から、丸山変電所を抜けて。眼鏡橋へ。

そして終点、この熊の平は、まるでエヴァンゲリオンの世界のようです。

電線が張り巡らせられて、高圧の電流が、EF63に送り込まれました。

重量級の粘着運転車両は、ここ軽井沢限定スペシャルです。

早朝暗い時間などに行くと、何やら人々の喧騒が聞こえるような錯覚に陥ります。


今ではここは野猿の生息地。人間の立ち入る場所ではないのかもしれません。

アプトのトンネル内を歩くとき、

ここを通過した、何万人としれない人々の思いが、天井から降ってくるような気さえします。

いよいよヤバいかな。俺は。



私の10代を象徴するのは、この人。


 
 

Appia . meccanica - Shibata ~ Racing

bottom of page