世に棲む日日
- shibata racing

- 1月12日
- 読了時間: 4分
今年になって本屋へ立ち読みに行きましたら、ある幕末の思想家にまつわる本が平積みされていました。その横には、75万部突破の文字が躍ります。人々は彼にナニを求めているのでしょうか。

2026年1月12日
つい先日、まことしやかに囁かれたのは、衆議院の解散のニュース。
この数ヶ月の目まぐるしさは、あたかも幕末の日本を想起させるようで、トランプというペリーのような圧倒的な存在感に、世界中が右往左往しているように感じるのは私だけでしょうか。
そんな折に、バカ売れしている吉田松陰の思想を箇条書きにした本。ぱらりと読むと、そこに書かれていることは、いわゆる自己啓発の元気薬とも言えるような言葉たち。かなり薄ーい、内容です。
なぜ今、吉田松陰なのかを思う時。このご時世が、150年ぶりに動いている予感を多くの方々が感じているのでしょう。
今更感がありますから、彼については多くは語りませんが。
かねてより私が語るのは、幕末のおける薩長が行った、強引な幕引き劇のこと。どちらかといえば、会津の側に加担する私ですから、官軍と言われた側の、その後の所業と、この150年のことなどまでを考えるとき、いささか過激だったのではないか?というのが偽らざる感想です。
ただ、その思想を生み出した背景や、この人たちを育んだ、長州、萩。というものの成り立ちには興味はありました。
いまだに行ったことがない、この萩という町には、一度は行かなくては話にならないだろうと常々思っています。むしろ行ってみたいという感情の方が勝っています。
もう20年も前の話ですが、私が東北を放浪した折に驚かされたのは、龍飛岬で、吉田松陰の足跡を発見したことでした。
彼は「困難甚だし」と龍飛の旅の過酷さを記し、その後弘前でもその足跡は残り、養生学園という幼稚園には、松陰ルームなるものがあり。確かにここを訪れたのだと。彼の偉大さは健在です。
その時私が思ったのは、「えぇ?いつ来たの何歳の頃?ナニしに」という素朴な疑問でした。
その答えは、司馬遼太郎の「世に住む日日」という小説の中に書かれてあります。
松陰寅次郎が東北を旅行したその要因は。ただただ、友人との約束。というものでした。
その約束。いわば口約束を守るために、脱藩して。その後罪を受けて、獄に入ります。
松陰の家というのは、もともと長州藩の兵学を教える家でした。
早くに養父を失った松陰は、この山鹿流兵学を極め、そして高める使命を受けています。
叔父の玉木文之進が松蔭に授けた最も重要な教えというものは、自らを藩の公人として、私事をいっさい捨て去ることです。つまりは、長州藩を背負うための心構えみたいなものでした。
その松陰は、それほどまで重要な、藩の命令よりも、友人との約束を重視します。
その後の彼の半生は、十分に記載されたものもありますから、私が語ることもないでしょう。
司馬さんは、松陰のことを「毛虫のように嫌い」だといいます。
そのためなのか、この、「世に住む日々」の中でも、ことごとく松蔭を「迂闊である」と書きます。そこにあるのは、後世に名を残すという一点であるかのように。それはけして汚名であってはならない。
松陰の思想の根源は、後世で自分が語られたときのみっともなさを残さないこと。
司馬さんの目は、この松陰の若さや、長州という関ヶ原以降の300年の恨みを地下三尺に持った、江戸方に足を向けて寝る習慣を持った。僻すうの一地方の小藩の冷静な分析に向けられます。
歴史小説家。むしろ時代評論家としての冷徹な目で持って、そこからの150年。現代の日本を形成した、いわゆる澱のようなものを見つけようとします。
以前にも少し話しましたが、私の住む群馬という地方の初代県知事は楫取素彦という方です。彼は長州藩の行政官でした。
小田村伊之助というのがもとの名前で、彼は吉田松陰の妹二人を妻にします。つまりは松陰の義理の弟です。
明治の頃に彼が基盤を作った我が故郷は、実は長州が模範だったのではないか?ということを常々考えます。それはあたかも小長州をこの地にこしらえたのではないか?という仮定です。
そんなことを考えながら、臨江閣を歩きます。
まだ、ほんの150年前のことなんだなと。
私の目標。かなり近い目標ですが。そのうち萩には行ってみたいですね。
そこには、明治期の群馬。前橋の姿がそのまま残っているような予感がしますから。
マイちゃんが紹介する萩の街並み。興味のある方だけどうぞ。そうとう行ってみたくなる。



