忘じがたきふるさと
- shibata racing

- 5 日前
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更新日:4 日前

先日少しだけ触れた、薩摩焼の沈壽官さんの話をしたい。
ここで話すのは、現在のその人ではなく、そのお父さんにあたる十四代当主のお話である。
薩摩焼というものは、土ものである。磁器ではない。
千利休がひらいた侘茶は、戦国武将たちの間では、嗜みとして、そしてもうひとつ、悪巧みの秘密の小部屋としての側面があった。
わずか畳2畳の閉鎖的な空間。そこに入るには、長物の刀は腰から外さなけば入れない。
躙り口という狭い引き戸から這いつくばって入室する。そこでは位の上下は無論、敵味方もない。
マインドを広げて心を通わせる。という大切なコミュニュケーションの場として機能した。
信長や秀吉は、戰の褒美として茶器を家来に与えた。
今でこそ、「なんだ茶碗か」と思うかもしれないが、当時の日本における器というものは基本的に、素焼きの鉢のようなものだった。
釉薬がかかって怪しくひかり。その中に宇宙を思わせつような窯変。その代表は天目じゃわんである。
今で言えば、宝石や自動車。絵画のような権威性を持っていたのが茶器全般であり、そのほとんどが舶来品。国内における生産スキルはまだなかった。
こうなると、自分だけの特別な茶器が欲しくなるのが心情だろう。
秀吉の朝鮮出兵の前線で、薩摩島津氏は破格の活躍を見せていたという。逆の立場から言えば、悪魔のような彼らを石萬子と呼び、島津義弘を恐れたという。
釜山にある南原城の戦いは凄惨を極めた。そこを守る明と朝鮮の合同軍。明軍は朝鮮兵の知らぬまに裏口から早々と逃げた。
踏みとどまったメンバーは、その後捕えられたが、殺されることはなかった。
このあたりが、薩摩島津の伝統で、明治維新の戊辰戦争においても、戦い敗れた幕府軍に対し、西郷は礼を尽くし、讃えたという。
しかし、この時生かされたには別のワケがあった。
島津は、朝鮮の陶工を探し、船に乗せて薩摩に連れ帰ることにする。それは自分だけの特別な茶器を作らせるために。
退却のゴタゴタで、朝鮮捕虜たちは有耶無耶にされ、取り残された。その後数年かけて薩摩に流れ着いた時。すでに40名になっていた。その中に沈壽官氏の初代も居た。
その後、なかなか定住する場所も決まらず、あたりを流浪しながら、ある土地と運命的な出会いをする。そこは苗代川という丘陵地だった。彼らはその風景に故郷朝鮮を見たという。
その後島津家から、氏族の地位を与えられ、碌も受けた。しかし彼らはその地を離れて城下に住むことを拒んだ。そこが故郷に似ていたからという理由で。
現在、苗代川は、地名をかえ、美山という美しい名前の集落になっている。
明治維新まで、薩摩は鉄壁の城塞都市だった。中に入ろうとするものはことごとく斬り殺され、外部の侵入者というものには人一倍警戒していた土地でもある。
関ヶ原以降、徳川家に対して並々ならぬ警戒心を忘れなかった島津氏。その土地の中でも、苗代川は、秘匿され。そこでは島津家だけのために特別な乳白色の茶器が生産されていた。これが、薩摩焼がポピュラーなものにならなかった理由だ。
維新後、島津家からの藩営の窯元としての働きから自由を得てから、世界にその技法を打ち出したのは、十二代沈壽官さんだ。
パリの万博での評価は、日本の伝統芸術のレベルの深さを世界に知らしめることになった。
ある新年のことである。
十三代から、「今年お前は失われた御前黒を復活させるように」と指令を受けた十四代は、「お父さんにできなかったことがなぜ俺にできる?」と反発したが。その言葉の重さを知り。一命を賭して幻の御前黒という真っ黒い薩摩焼を復活させることになる。
先祖伝来の古文書から、どうやらそのための土が、近くの「鍋山」という場所にあるらしかった。その山の持ち主は偏屈な年寄りで、何度訪ねても「知らない」と相手にもしなかった。
ある台風が迫り来る夜に、十四代は、オートバイで濡れ鼠のように、また鍋山の老人を訪ねた。その熱意に驚いた老人は、台風がさった翌日の朝にまた来るように。と一言いい。初めて部屋に招きいれてくれた。
早朝に尋ねると、ヘコ帯が手渡され、それで自分を背に乗せて、山に登れという。
一日中、ソコ掘れ、あそこ掘れと背から指示を受け、土を掘る。
諦めかけた直後、チョコレート色の土の層に当たった。舐めてみると鉄をふんだんに含んだ味がした。水酸化鉄の層であった。
この土をベースに、鍋山の釉薬を潜らせたものが黒薩摩であり、その中でも稀に黄金が、梨地に吹き出したような黒い器が、幻の御前黒だ。
満足のいく焼き物を老人に持ってゆくと、老人は一礼してその器を拝み神棚に乗せたという。
それからわずか一ヶ月。老人はなくなり、お悔やみに行くと、祭壇の中央に御前黒が水を張られ、いくつかの菊の花が浮かべられていた。
薩摩焼の中における日常使いとされる黒薩摩。その窯ひとつの中でわずか数個出るか出ないかの御前黒はこうして復活した。
晩年、その功績を讃えられ韓国へと招かれた時のこと、行く先々で、若者達が日本の36年間の圧制を訴えていた。
ソウル大学における公演の最後に、「これはいうべきかどうか」と前置きしたのちに、「日本に対し、いうことは構わないが、言い過ぎるのはいかがなものか。その時点で後ろ向きであり、これから発展すべき若い国にとって、プラスの感情ではない。」
あなた方が、36年をいうのなら、私どもは370年を言わなければいけなくなる....。
美山にある小高い丘には、400年間の祖先の歴史が詰まっているという。その丘に十四代は登り、遠く彼方にうっすらと見える祖先が上陸した海に目をやる。
彼が見ているのはその先に広がる東シナ海。その先になる南原城なのだろうか。
日本で生まれ日本の国籍をもちながら、心は祖先の故郷を思う
「故郷忘じがたく」


