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模様から模様をつくらず

  • 執筆者の写真: shibata racing
    shibata racing
  • 6月3日
  • 読了時間: 6分

更新日:6月5日







人生を紐解く書籍というものは、まさしく星の数ほど出ている。

街の書店の入り口には、大体このような本が平積みされていて、その本を手に取り、人生を応援してもらおうという意識高い系の方が購入する。

こういう書籍の多く、特に近年出されたものは、表紙の印刷が凝っていて、文字が浮き上がっていたり、写真がなぜか光っていたり。

本としての体裁がとても凄い。

一冊三千円とかするけれど、これくらい装丁が凝っているのなら納得だろう?とでもいいたそうだ。

ではと、中身を読むと、その多くは箇条書きで、簡潔にその日、数行読んで、仕事に出かけるような形式となっている。


私などはこういう本は、ほとんど店舗で立ち読みして、自己完結しているが、その内容の多くは、誰かの受け売りで、

「こういうことを言っている人の話を、かつて聞いたことあるような気がする」みたいな物事。

おおよそ、作者から出てきた言葉は少ないようだ。

それは、湯水のような読書量と、膨大な知識の海を有していなければかけないことは確かなのだが、いわゆる引用は、その人の体温を持っていないから、その人の言葉にはなり得ない。


これは、いわばパクリのネタを人生を賭けて集め、いつでもそれを取り出して、教訓を垂れることで、人望を集めようとする行為であり、物事の本質を見誤っているような気もする。

本当に明日のことがわからないような人がいたとして、その人の人生が、他人の言葉によって左右されるようなことはあまりないんじゃないのか?

これは、素直さと疑り深さとのせめぎ合いのようなもので、自己啓発にはどこかレクリエーションのような側面があるのではないだろうか。

実際に何かが変わるのは、強烈に本人が、自己の変化を望んだ時であろう。

例えば図書館の書物をはじから全部読破したとして、気持ちにひっかる文言に出会えるとは限らない。

まず最初に疑問があって、初めてその言葉が何かをきっかけに触媒のように発動するものだ。


ひとつの選択肢として、何も読まない人生もあるだろう。

経験からのみ教えを享受し、その後の人生の、時々のシュチュエーションで上手に生かしてゆく。という生き方だ。

これは長い時間と経験に全てが委ねられる。


物事で一番難しいのは、「制約のない創作」というものだ。

「なんでも良いから好きなもの作ってみぃ」といわれて、多くの方々は資料を集める。その中からいいとこ取りをして、なんか見たことのあるようなものを提示するというのが、世の中に蔓延る創作であり。世の中のほとんどが模倣であることは否定できない。

それほどに何も制約のないところからものを作ることは難しいので、人は、一生終わることのない資料集めを続ける。


私も写真集を見たり、映画を見たり、絵画を観たりするが、「うまくパクれねえかな」という感じの邪な魂を封じ込めることができない。そうして、一生模様を蓄積して、いつかそれらしい模様を作ろうとしている。いつか。

岡本太郎は、「いずれ、とかそのうち、なんていうのは言い訳に過ぎない」と言い切っている。


私はそんな精神だから、これが自分だと言い切れるものはいつまでもできないような気がする。いつでも「誰々風」なのであるまいか。

ただこれに気がついているかいないかは、行ってくるほど違っていて、世の中に出す時。できるだけネタがわからないレベルまで自分の中でこねくり回すように気をつけてはいるが、それとて所詮、人のアイデアの束を選り分けてる誤魔化しにすぎない。


もう一方で、伝統を厳格に重んずる世界というものも存在する。

一つの伝統技法を、正確になぞり、後世にその技術を、できるだけ正確に残してゆく。という分野の仕事だ。

そこには己なんていうものはなくて、ひたすら先人の仕事をトレースし、模様から寸分違わぬ模様を再現する。

高度な魂のせめぎ合いだ。


焼き物という世界には、こういう精神性が根底にあり、まずは完璧な模倣。そして連続性。製品のばらつきのなさ。などが本質的に問われ。誰がそれを行なったかより、コレがその、アレなんですね。みたいな「顔」を作ることにひたすら研鑽する。

私は個人的には、こういう伝統品の中にこそ、真の価値があると感じていて、その制約の中に自分を宿していくことに一生をかけ、そして次世代に譲り渡そうとする無名の作家たちを尊敬する。


近代焼き物の聖地といえば、やはり九州であることに異論はない。

伊万里や鍋島、そして薩摩。こうしたもののルーツは朝鮮にある。

始まりは秀吉の朝鮮出兵であり、その際に連行されてきた陶工たちが、ある一定の地域に幽閉されて、その製法は秘匿され、諸藩の特産品として財政を支えた。彼らは、心の拠り所を彼の地に抱きながら、450年間この日本で、代々伝統を継承している。


なぜ九州に散らばっているかといえば、秀吉軍諸将が、捕虜を分割し、連れ帰ったからで、その個人の特異性が、この狭い地域に全く違った姿を捜索した。そこには模倣はなく、明確な色がある。

白薩摩というものは、土から特別に白く、その釉薬は秘伝であり。島津の殿様だけに使用が許された特別なものだった。

鍋島藩の色は、青磁で、淡くほのかなブルーは、吸い込まれるような滑らかさを持っている。

これら多くは、技法の特殊性から、窯の中で砕け散り、それでも挑戦をやめなかったものだけが、後の世にカタチとして遺される。


これらは、朝鮮の技法でありながら、日本という土地に世を受けた職人たちの模様である。

なぜかこれに惹かれる私は、実は縄文人ではなく、むしろ渡来人なのかもしれない。と考えることもある。

それは自分でもわからない、ルーツの話なのだが。


シバさんの街道をゆくの中の「肥薩の道」という回に、薩摩焼の十四代「沈壽官」さんというかたが登場する。シバさんはこのヒトをたいそう気に入っていて、個人の小説を執筆もしている。

あるとき、祇園のお座敷に招かれた沈さんに、芸妓が「なにかお歌いやす」みたいなことを言った。徐に立ち上がった沈さんは、関ヶ原のうたを詠ったという。

島津家が関ヶ原に参戦した時。戦いには参加せず。最後に敵前を突破して、九州まで帰ってくる様子を歌っている退却戦のうたである。

これを島津の退き口といい、1500人いた兵が、薩摩にたどり着いた時は80人だったという。


うたがいよいよ、島津豊久が敵の繰り出す無数の槍に、空中に投げ出されるくだりに差し掛かった時、沈氏はポロポロと涙を流したという。これには呆然とした芸妓の三味線の手も止まり、祇園の座敷の空気感は、張り詰めたようになったようである。

朝鮮にルーツがあり、日本人として島津の土地に生まれた十四代は、紛れもなく生粋の、武骨な薩摩人であった。


帰りの車に乗り込んだ、同行の須田画伯は、ひとこと「あの人は西郷さんですね」それだけいったという。


自分の人生の行先に戸惑っていた若い十五代に対して、シバさんはこのような手紙を送った。

  ー 民族というものは瑣末なものだ。文化の共有個体にすぎない。種族ではない。ー


子孫に美田を残さず、人づくりこそが薩摩の気風である。ということをつたえたのだろう。


 
 

Appia . mecccanica - Shibata ~ Racing

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