猿でもという勿れ
- shibata racing

- 8月21日
- 読了時間: 7分
更新日:8月24日

YouTubeなどで時々無遠慮に表示される「サルでもわかる。なにがし」のようなサムネイルを見ていると虚しさがある。
これはハウツゥーのような語りが多いのだが、あなたはサル並みで、猿はヒト以下だけど、わかるように言ってやる。
てきな奢りが見える。
無論私はこう言うものは一切見ないが、あらわれるだけで気分を害するのは間違いない。
60年代、ジェーン. グドールという、うら若き英国人が、世に出したチンパンジーに関する研究には驚かされる。彼女は一緒に暮らしながら、ゲノムの配列まで調べ上げて、チンパンジーと人間が98パーセントまで同じ生き物であると述べた。
たとえ犬でも、私などは人間と究極まで近いな、と感じるから、この研究には納得する。実は、ゴリラよりも人間の方がチンパンジー寄りなのだそうである。私自身は、むしろチンパンジー寄りな「ヒト」だと感じる。
いつもいう、地球の歴史48億年のわずか50年前に、こういう事実がわかったことなどを考えると。もしかしたらもっと人間に近い動物がいるかも知れないと考えるだけでワクワクする。
しかし、見るからに人間で、同じ言語を話す他人に、「お前は猿並みの頭だろうが俺が教えてやる」みたいなものは傲慢だし。それを喜んでホイホイ見るような人がいるからこういう本や、動画が存在する。
チンパンジーはこの50年で生息数は10パーセントまで減っている。私たちが小学生だった頃満杯だった校舎は、通う子供もいないから朽ちている。あんまりヘラヘラしていると、人間もチンパンジーと同じような運命を辿るのだろと、スマホが離せないドーパミン中毒の子供を見ていて思う。彼らはもう子供など育てないかもしれない。自分の時間を奪われるから.....。
そこいらじゅう舗装したから気温が上昇して、それをエアコンの室外機がより気温上昇を手助けする。
「泥の道じゃぁ歩けないでしょう?」いつからそうなったのだろう。馬鹿者どもの人間は。
人は想像力を発達させたことで脳を進化させてきた。それは期待感と言い換えても良いだろう。
暗い未来を想像すれば、なにふじゅうなく食生活が行われているにもかかわらず、先の不安を思い心の安心を得られない。まだなくなってもいない米のことを思い買い占めたりもする。
逆に、粗末な生活をしながらも、ここはオーストリアの宮殿だと思えば、自分が皇女のような気分で暮らせることもある。
この辺りが、人と猿の間に存在するわずかな心持ちなの差異なのではないか?とは、あくまでも私の想像で。
実はチンパンジーも夜夢を見て、煌びやかな洋服を着て、ベンツに乗っている想像をめぐらせているのかも知れないが、まだその研究はなされていないようである。
私などが、エアコンのない生活などをしているだけで、騒ぎ立てる身近な人間たちがいる。
コレは家族ではなく、多少ヒトとなりが知れている友人レベルの方々で、家族などはもうとうに諦めていて、別の世界の人。くらいに考えているようで、安心だ。
他人の心遣いは大変嬉しいが、大きなお世話だ。
昼間の熱気に茹で上げられた断熱効果のない壁のカラー天板しかない天井のない屋根の下で毎日寝ている私には、砂漠の中で悠然としている自分が想像できていて、カーテンもないガラス張りの屋外には、静かな砂丘が広々と広がっていると感じている。
コレは私の人間的な想像であり、そのように見えている世界の話だ。
ここは地球であり、私たちは逃げ出すことはできない。ならば全てを受け入れて、諦めて暮らすのが筋であり現実なのだが、みなさまはどうにもそれを享受できないようである。
「ジタバタするんじゃないよ、心頭滅却すれば火もまた涼しだよ」なんてことを言うと、いよいよシバタも逝っちゃったかと思うようで、うっすらと笑われたりする。
私はこういう文化的な蔑みには慣れていて、むしろ笑っている方に同情するから全く腹も立たない。
苦しみの向こう側に行ったことがないなんて勿体無いな、とすら思ってしまう。
夏の盛り、バイクに関する仕事などより、草刈りや、枝払い。生活改善の修繕などの方がはるかに多いのだが、それが人が地球に暮らすことだと思っているから私は無償の労働に、むしろ感謝すらしている。
私は虫も殺せないから、殺虫剤は撒かないし、部屋に蝶々やトンボが入ってくると可哀想で右往左往する。
色々窓を開けて、そこに導くように仕向け、できるだけ無事に外へ出してやりたいと対応に苦慮する。ほっとけば良いのだが、窓のガラスのところで不毛に羽ばたき、力尽きるのが忍びないのでコレをやる。
一寸の虫にも五分の魂。彼らも地球に生きているし、エアコンやスマホなんかには支配されずに自由な旅をする、私の側の生き物である。
蝶やヤブ蚊以外に、当店にこの時期にやってくる殊勝な方々というのは、十二分にこの辺を心得ていて、シバタの店が情熱熱風セレーナーデであることをわかっている賢人たちである。
ある医者などは、自分のクリニックの絵面の入った団扇を10個くらい置いてゆく。宣伝しながらも、気遣ってくれてはいるが、とてもいられないらしく10分くらいで車で逃げ帰る。
郵便配達と新聞の勧誘くらいしか夏の当店にはバイクではやって来るひとはいない。
私はここに24時間いて、砂漠の丘陵を眺めているが、今年の夏はヤワで、それほど暑くはないと感じている。
軽井沢つるや旅館のマモルさんは、この夏3回暖房を使ったそうである。
もう夜などは秋の虫などが鳴き始めていて、前橋でもすっかり秋の夜長を満喫している。
環境に対応できないバイク乗りの皆様も、来店しやすい季節がもうすぐやってくるだろう。ぜひ珈琲でも飲みにきていただきたい。
どうやら浅煎りと深煎りではカラダに対する効能が違うらしく、とても奥の深い果実のジュースだなぁと感じている。トリゴネリンとかポリフェノールとか、コーヒーはいわば薬として飲まれてきた。
最近いよいよ投入した、マルケニッヒというレジェンダリーなコーヒーミルにより、浅煎りの奥にある、緩やかな甘味をとうとう引き出すことに成功して、千夜一夜物語の一説や、森鴎外が翻訳したサロメなどを読んで、眠気を呼んでいる。
ちなみに上記のグドール博士の好きな朝食と言うのは、コーヒーと薄い食パンにイングリッシュマーマレードだそうである。
私はカレーが大好きで、大昔から真夏でも真冬でも、なんでもカレーを食べる。食堂ではいつもカレーを注文した。
こだわりはなく、インドでもタイでも金沢カレーでも大衆食堂のカレーでもなんでも好きだ。
しかし最近センサリーが敏感になって、塩分が過剰に感じられるようになってしまった。
このセンサリーとは、わずかな味や香りにも敏感に反応するように、薄味で素材の味を感じ取れる訓練を日々行うことで磨かれる。
コレはコーヒーの為に始めた食生活改善で研ぎ澄まされたのだが、いわゆる外食はしょっぱくてしょうがない。
レトルトカレーなどは一様に塩っぱくて、昨日久しぶりに食べた本格インドカレーも喉が渇く始末。
このカレーを作ってくれているのは、セキちゃんと言うインド人で、もう私は40年以上この人の作るインドカレーを食べている。
先週インド里帰りから日本に帰国したセキちゃんが言うには
「日本暑いよ、インドより暑いよ」いくらなんでも大袈裟だと思ったが。インド人がそう言うのだから耳を傾ける必要もあるだろう。
要は何事も慣れなのだが。セキちゃんには10日くらい我慢していただきたい。
壁にかけられたタージマハルの白い大理石の写真を見ながらカライティッカと、アフガニーナンを食べる。
このナンは中にナッツや何かがぎっしり入っていて、ココナッツの風味がたまらない。本来はおやつ用で、カレーと一緒にコレを食べるのは私くらいだ。
セキちゃんがサービスでつけてくれたマンゴラッシーは本物のマンゴーよりマンゴーで、窓の外には広大なガンジス川が滔々と流れ、私はアラビアのロレンスのような白い布をかぶり汗だくで食事をした、と言いたいが。
店内は24度Cに保たれて、灼熱をしばし忘れさせてくれた。
ウム。ここは確かにニッポンだ。
このぉなぁつのことは、覚えていないかぁら。あのぉなぁつのことは、淡いキオクのままぁ。
今年の春のニュースだったのは、コーディーリーの活動休止。高橋響の詩で、あの夏のせいにしてこの夏を乗りこなせたかなぁ、俺は。またいつかの夏に、君の歌を聴かせてくれ。


