発狂せるのみ
- shibata racing

- 7月7日
- 読了時間: 6分
更新日:7月8日

郷土の偉人という話は聞いたことがあるだろうが、郷土の奇人となると、はなはだ稀な話になる。
少し前のこと。
自民と維新が連立政権を発足した時。維新の会の藤田代表が、記者に向かってこう発言した。
「諸君、狂いたまえ」これは幕末長州藩の吉田松陰が、私塾の生徒に向かって言った言葉とされている。
混乱の世を新しい方向へ導くにあたって、この吉田松陰並みの意識で、政治を行いますよ。とでも言いたかったのだろうが、彼らはその後、狂うほどのことを成したとも思えない。
安倍政権を引き継ぐと宣言した高市自民と、明治維新を意識したネーミングの連立政党が目指すのは、いうまでもなく正調の長州政治とでもいうべきものだろう。
今更ながら、明治維新から150年の間。この日本を引っ張ってきたのはこの形態だ。
では、その意識の根源となった尊皇思想は、一体誰からもたらされたものだったか?ということになると、多くの国民は知らない。
京都三条の橋の袂に、土下座の銅像がある。これは別に謝っているのではなく。御所に向かって挨拶をしているのだ。
この人こそが、松陰寅次郎が心酔していた高山彦九郎という人である。
彼は吉田松陰より100年前の上州人だった。
百姓の次男として生まれ、髷を結い、大小の刀を差して近所を歩いた。代官所からお呼びがかかっておシラスで、「お前はどういう了見だ」と聞かれると、朗々と大学をぶち、代官を感動させ、そのうえ、君は「奇人」だからなにやってもおお目に見るよ。とのお墨付きまでもらう。こうなると上州に止まってる必要もなく、全国を行脚し、人に会い。思想を説く。その数ざっと5000人。
その思想の根源は。
日本は天皇の国であり。徳川という俗物がこの国を好き勝手していることが許せない。と、簡潔に言えばそういうことになる。
ときは天明の大飢饉。田沼意次から松平定信へと舵が切られた頃のことだ。
これは米一辺倒で世を作った徳川の失策であり、この南洋の植物を、寒冷地の東北でも作らざるを得ない状況に追いやった責任は重大である。未だもって、日本はコメ問題を抱えていて、過剰な減反政策がその引き金となっているのも記憶に新しい。なのにこの植物に頼り切っている状態は江戸時代のままだ。
彼はその惨状を東北で見た。人が人を喰う現場を生で見た。いよいよこの間違いを糺さなければならないと。熱く語り歩いた。
たとえば広い土地に牛や馬を放し、その乳や肉を食い。山野を開かず、東北に多く残る落葉紅葉樹の森をふんだんに残し、木の実をとり、魚が遡上し、それら獲物を狩るために、銃でも槍でも持っていいよ。とは、謀反を恐れる情弱な徳川幕府はいわなかった。
そのウララかな三河の旦那感覚で日本を統治するとは何事ぞ。
やったことといえばただこれだけで、けして、幕府を倒そうというような過激な運動は行ってはいない。
ただただ、語り、抱き合い。涙するのみだ。この純粋さに、その後の討幕思想とは決定的に異なる面を見る。
金も名誉も権力も、自らにもたらそうとは微塵も考えてはいない。
京都について御所を拝み、三条の袂で涙しながら天皇を敬う。その涙は朗々と流れて、鴨川の流れになったともいわれる。
その後の行動が凄い。
彼は足利尊氏の墓につくなり、自前の鞭で墓石を300回鞭打った。その都度、足利氏の狼藉を叱責したといわれている。
そのわけは「太平記」にある。
彦九郎は13歳でこの22巻にも及ぶ大作を読み。いかに武家政治が終わり天皇の世になったか、その後、天皇を京都から追い出した室町政権のことを激しく憤っている。おおよそ、その時ですら500年近く前の話であるのに。
日本中歩き回った彦九郎は膨大な日記を残したといわれるが、その死に際し、九州の知人宅の庭で引きちぎり、破って捨てた。
「自分の人生はまったく無駄だった」と。
様子がおかしい彦九郎を心配した知人が、少しの間目を離したすきに、彦九郎は脇差を腹にあて自死した。
血まみれで「我、発狂せるのみ」と言い残して。
しかし本当の彦九郎の功績はこの100年後。長州の吉田松陰によって、発見される。
彼を慕った高杉晋作は上州まで赴き、彦九郎の墓に詣でたといわれている。
結果的に、現在、天皇の世になり。その政治は長州藩の末裔たちによっていまだに続いているというわけである。
彦九郎詣では、昨年から行うつもりではあったものの、なかなかその機会がなかった。
自分の中で、また彦九郎が現れたのは、最近で。いよいよ太田にあるこの記念館まで足を伸ばした。

受付に行くと、館内の電気は消えていて、事務所には男性がひとり。つなぎの私を見て、電気工事の人足だと思ったようだったが、入館者だとわかると、慌ただしく館内の電気をつけた。
「平日は人がほとんど来ないもんで」というので。「土日は、混み合うのですか?」と聞くと「いやぁ土日もほとんど来ません」
それほど、この高山彦九郎は誰にも知られていない。
しかしながら、館内の資料はなかなか凄くて、年表などもものすごく緻密に調べ上げられている。
一人で見られて嬉しいな。と思っていたら、その事務の方が出てきて、ものすごい勢いで年表の説明を始めた。
その勢いは、思考と言葉がまるで噛み合っておらず、誰かが来たことで興奮がマックスに達している様子だった。その彼の様子を見ていてふと思ったのは、滅多にお客さんが来ない当店も、誰かが来たときに私が同じようにジェットコースターのようなトークをしている様とかさなり。我が身を顧みるような気分だった。
そのさきも先導していきそうな勢いだったので「ありがとうございました、この先は自分のペースでゆっくり見ます」と言って開放していただいた。
彦九郎はいったいなぜ、それほどまでに尊皇思考になったのだろうか?「太平記」を読めば誰もが尊皇になるわけでもないだろう。
少なくとも私には長すぎて、とても読む気はおこらない。
この問いを、施設から目と鼻の先にある浅野食堂で、太田焼きそばもつセットを食しながらしみじみ考えてみた.....。
ここは恐ろしく人気店で、その喧騒が余計に、カオスのような深い思考を可能にした。
高山彦九郎は、日本中を駆け抜けて、最後は自ら命を絶ち。自分の行なってきたことを全て否定して世を去った。
その墓石には「松陰以白居士」という戒名が刻まれている。吉田松陰出現の100年前の話である....。
館内の一角に水琴窟があった。
誰もいない記念館はピンが落ちても響くくらいに静かで。
その水琴窟の音色は、綺麗なベルのような音がする。
キン、カン、ピキン。と響くその音は澄み渡り、まるで澱みがない。彦九郎が流した涙の音のようだった。



