表現のわだち
- shibata racing

- 1月30日
- 読了時間: 4分
人は誰でも表現を行いたいと思うようです。そのカタチは人それぞれです。
誰もまだやったことがないこと、伝統といわれるカタチ。生き物の中で意図して表現をするのは、ヒトだけです。

2026年1月30日
なんでも良いからなんかしたい。
コレは誰もが思い描くことでしょう。何をして良いかわからない。という話はよく聞かれます。インスタグラムやTikTokなどが現在のツールのようですが。どうにもインターネット上のものは存在が薄いように思います。人は何かを手に取ることでしか、その存在を確かめる術を持ちません。音や匂い、気配なんていうのも表現としては存在するようです。
アーツ前橋という現代美術の展示場のようなものが前橋の真ん中に建っています。
そこは昔は西武のウオーク館というショッピングモールでした。映画館なども入っていて、私たちが若い頃はそこに行けば、流行を感じ取れるようなそんな場所でした。
昨日は久しぶりに、ここに行ってきました。
私のところには毎回、ここへの招待券というものが届きますが、いつも行くわけではなくて、たまたま今回のものは、その得体の知れなさから、気になっていました。
近所の友人オノダさんに、聞いてみます。
この方はレセプションにも行ってきて、本人にも会っているので、大体知っていると思ったのです。
「あのさぁ、先週から始まった、なんか女の人のは、何やる人のなん?」
「あぁあれかい。ピアノの外の表現だよ」
ピアノの外?この人の説明はいつもこうで、「関係ないだろう、気になるんなら自分で行ってみて確かめな」というスタンスです。
そして行ってきたのですが。
まぁ苦しい。息苦しいし、目まぐるしい。長くはいられない空間でした。
岡本太郎がこんなことを言っていました。
「デパートで展示会をやったら、主婦らしきご婦人が作品の前にずっといて、ひと言残して帰って行った。あぁやな感じ。」
その瞬間。コレは成功だと思ったといいます。
「あら良いわね、綺麗ねなんていうのは芸術ではなくて、なんだこれは!胸糞が悪い。というものこそが真の芸術だ」と言い残しています。
そういう意味で、昨日訪れた向井山朋子さんというピアニストのピアノの外の展覧会は、インパクトがありました。
全く居た堪れない感情が湧きましたから。
石井裕という科学者がいて、このかたが90年代に作ったものに、クリアボードというものがあります。
透明な板の中で離れた相手と会話ができ、互いの図案を、裏表で書き出せるというものです。コレが世に出た当時、ほとんど誰にも評価はされず、世界でほんの数人が反応したといいます。それは今までの概念になかった事象だからですね。
リセットとリブート。新しい発想は絶えず過去と決別するところからしかはじまらない。
コレは30年後、タブレット端末に姿を変えていますが、クリアボードには、裏表両面からコミニュケーションできるという、まだ実用化されていない形が存在しました。
石井さんが提唱するタンジブルという概念は、そこに人が介在するのです。触覚とか圧とかいう、人のぬくもりみたいなものが。
少し前に出たもので、アイオーブラシというものがあり、ブラシでなぞると、その色や画像が外面に描き出せるというものです。
それはただ色にとどまらず、模様や、人の顔までも。とコレだけ言ったとしても皆様にはイメージが思い浮かばないでしょう。
つまりは、説明を聞く以前に思い浮かぶものが発明というものです。
とはいえ、昔からある伝統を継承することも軽んじてはいけません。
大昔に誰かが発明し、今に伝わるものはそれなりに人の感性に合っているということです。
「いとみち」という映画があって、私はコレが好きで、ブルーレイも持っているのですが。最近はサブスクでもみられてちょっと嬉しい気分なので、気が向くとつい覧ちゃいますね。
この主人公は、三味線をひく高校生です。お婆ちゃんも津軽三味線の奏者。お母さんもやはり三味線ひきだったのですが、彼女が小さい頃亡くなっていて、朧げに記憶にあるのは縁側で三味線をひく母の姿。
いわゆる「血」のなかに三味線がある彼女は、何者にも導かれることなく三味線を弾きます。この伝統芸能の中にある生まれと継承というものは軽んじることはできず、抗うこともままならないようです。
昨日、いつもの本屋の中古コーナーを物色していたらなんと「いとみち」のパンフレットが100円で売られていたので、思わず買っちゃいました。これも、ふらりと、アーツ前橋に行ったから。なにか魂が揺さぶられる一日でした。
いわゆる家業というものがありますが、それは皆様のDNAの中で怪しく燻り、いつか白日のもとに現れる日が来るに違いありません。
心を研ぎ澄ませて、声を聞いてみてください。自分は何をやるべきなのか?


