黄金花咲くみちのく
- shibata racing
- 3月29日
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今朝、前橋の敷島公園では、すでにサクラが開花していました。
昨夜からの強風と、朝からの氷雨の中。桜の花は力強く、そして美しく。今年も咲いてくれています。

2025年3月29日
春から早々に、黄金の花とは、いよいよ気でもふれたのか?と思われそうな今日この頃ですが。
今年もどこかのタイミングで行くつもりになっている、東北。福島のことを少しだけ触れてみたいと思います。
空海が唐から帰国した時に、こんな歌を読んでいます。
「空しく行き、満ちて帰る」
これは、私は空っぽで中国へ渡ったが、大変な量の知識を得て帰国したのだ。というような意味らしいのですが。
空海はこの時、決して空っぽで行ったのではなく。大量の砂金を携えて唐に渡ったといわれます。
そりゃそうで、手ぶらでやってきた薄汚い坊さんに、外国がそんなに優しいわきゃぁありません。
それなりの手土産を持ってきたから、優しくしたのでしょう。
では、その大量の砂金は何処から出たのでしょう。
それは、白河の関を擁する、八溝山の砂金です。
時は天平の甍の時代。
奈良の大仏を作ってはみたものの、ボディーを飾る金箔が、国内にはありませんでした。
黄金の国ジパングは、その頃、純金を輸入に頼っていたのです。
しかし、突如として、陸奥で金が産出されるに至り、大仏は金箔に覆われ、あまりの喜びに、恩赦まで行われたといいますから、都にとってこの、陸奥の底知れなさは憧れであり、脅威であったかも知れません。
ここ、白河の関は、その後松尾芭蕉に謳われ、戊辰戦争では、官軍と会津若松軍の激しい戦闘も行われました。
いわば西対東の戦争は、西の勝利に終わり。その後今に至るまで長州の政治体制が続いています。
私は、東側の人間としての誇りみたいなものがあるためなのか、ここで奮戦した会津藩や、東北。いわば陸奥全体に対して、異常なほどの愛着を持っています。
ここ数年、毎年のように会津に行っていますが、今年もまた行くつもりです。
では、なぜ会津一藩だけが、明治維新とともに徹底的に痛めつけられたのでしょうか?
それは、藩祖、保科正之の教えが根底にあります。
宗家と共に、歩むべし。
というのがその教えの根幹で。何があっても徳川家に忠勤せよ。というものでした。
幕末。
この藩は幕府から京都守護職を命じられます。
何度も断ったにも関わらず。最終的にお役目に着いた背景には、会津藩の最強の武力と、松平容保の聡明さがあったといわれています。
「薪を背負って火中へ入る。」と家老の西郷頼母が大反対したのにも関わらず。
当の徳川宗家は、早々に恭順して、打ち下ろす刀の先を失った、薩長は、残された会津一藩に、その責を全て負わせます。
その後の歴史は、皆様もご存知のところでしょう。
私個人の趣味なのですが、どうにも東京から西には興味が持てず、いつも東北に向かってしまうのは、自分自身がそこから生まれてきたのだと、強く感じるからでしょう。
今年のツーリングは、白河の関を超えて、陸奥に入ろうと画策しています。
黄金の花さく陸奥は、今年も待っていてくれるでしょう。
司馬遼太郎さんは、旅行記の「街道を行く」の中で、東北の印象を一言で、見事に言い表しています。
「東北は単独で、すでに偉大なのである」
